天国へと旅立った母へ

プライベート
まりん
まりん

今日は、少しだけあたしのプライベートの出来事を書こうと思います。

良かったら、少しお付き合いください。

7/17 16:35 母は天国へと旅立った

大好きだった母は、とうとう天国へと旅立ってしまった…

母は、まだ67歳だった…

早すぎる母の死。

母の死から、今日でちょうど1週間が経ったが、母の死を受け入れられないでいるあたし。

母のことを考えると胸が苦しくなって息ができなくなる。。。

最後を看取ったけれど、

あれは夢だったんじゃないか?!

あの母が死ぬなんて…

とそんなことばかり考えてしまう。。。

人はいつかは死を迎える

当然のことながら、親の死に直面することは生きていれば避けては通れないのはわかってはいたけれど、、、

やはり、直面してしまうと

辛すぎてなかなか受け入れなれない。

このブログを書くのも

辛すぎてなかなか筆が進まず…

何度も画面を閉じてしまう。。。

しかし、母への思いと感謝を込めて

そして、母が頑張って生きた証として

記録に残すために書こうと思います。

末期の全身癌

母は、3年前に胃癌になりました。

病院嫌いな母は、体の調子は悪かったのですが、「大丈夫!元気や。20歳から病気一つなったことがないから大丈夫。」といって病院へは決して行こうとしなかった。

父もあたしも心配して病院へ検査に行こうと何度も進めたけれど、結局行かなかった…

ある日、母が救急車で運ばれて緊急手術になり、急いで病院へ。

原因は、胃癌でした。

胃袋の中で、癌が大きくなりすぎたことにより、胃袋が破裂したのです。

幸いにもそのときは、胃袋の半分を切除して癌ごと取り除き、完治したが、

お医者さん曰く、

状況は極めて最悪です。と…

なぜか尋ねると、

胃袋が破れていなければ、これで完治して安心だったのですが、悪くも胃袋が破れてしまったため、ガン細胞たちは、体全身に巡ってしまっているだろうと。そして、そのガン細胞たちが芽を出したら進行の早い種類のガン細胞だったため、早かったら3ヶ月、抗がん剤治療で抗がん剤が効いたとしても長くて1年だろうと余命宣告をされたのです。

あたしは、そのときも涙が止まらず、ガン細胞たちが芽を出さないように祈りながら心配な日々を過ごす…

でも、母は心配しているあたしをよそに、ケロッとしてもう治ったから大丈夫!と。

日が経つごとに、

経過は順調のようだったので、あたしももう大丈夫なんだと安心してしまって、またいつもの日常に戻ってしまった。

実家と車で2時間くらい離れているので、

数ヶ月に一回しか帰らなかったのが今となってはとても悔やまれる( ; ; )

まだ、そのころはサイドファイヤーはしていなくて、サイドファイヤーするために権利収入を構築するのに、全国を飛び回っていてとても忙しくしていたので、実家へはあまり帰れなかった。。。(T ^ T)

あたしは、母が生きているうちにファイヤーして成功している姿を見せて安心させてあげたかったので、とにかく早くファイヤーしようと仕事に力を入れていた。

そうこうしているうちに、

一年前に、首のリンパに悪性の腫瘍が見つかり、調べてもらったら、すでに全身に転移してしまっていた…>_<

3年前手術してから、ちゃんと月に一度の定期検診にも行っていたという母。

まさか全身に転移してガン細胞が芽が出てしまっているとは夢にも思っていなかったと母は言った。

骨にも転移が見られるため、手術しようがない。できる治療は抗がん剤治療だけ。

もう、手遅れだった。。。(ノ_<)

つい、母のいつもの口癖の「大丈夫!」という言葉に安心してしまって、仕事ばかりして母に会いに行くことを疎かにした自分が本当に悔やまれる。。。

世の中は、コロナが広まりなかなかおさまらない。。。

全身癌になった母がコロナになってしまったら大変だということで、なかなか会いに行けなくなり、様子は電話で。

アナログな両親なので、

未だに携帯はガラケーで、テレビ電話もできなかったので、声だけで様子を聞いていたけれど、

声だけ聞いていると、いつもの「大丈夫や〜」とまぁまぁ元気そうだったので、大丈夫なのかなぁ。と

世の中は、コロナは一向に終息の気配なし。

どうしたものかと…時だけが過ぎてゆく…

母の様子が心配で、実家にしばらく移り住もうか…

でも小学生の娘、ゆあんの学校はどうしようか…と悩んでいるうちに

父からの電話。

お母さんの調子があまり良くない。。。と

ちょうどゴールデンウィークに入る時だったので、子供たちを連れて実家へ。

そのころは、もう食欲は落ちていたけど、

タコパー(たこ焼きパーティー)をしたら、

とても喜んでくれた。

たまに、父と2人でタコパーをするというので、ゆーきとゆあんがおばあちゃんのために焼きたーい^ ^と言ってタコパーすることになった♪

母は、みんなで食べるととても美味しくて楽しいわぁ〜♡といってとても喜んでくれた。

母の日も近かったので、母への感謝を込めてルイヴィトンのストールと母の名前を入れてもらったCHANELの口紅をプレゼントしたら、おしゃれ好きだった母はとても喜んでくれた♡

みんながとても楽しい時間だった。

最後の2週間

6/19から母はご飯が食べれなくなり、父から1週間経ってから連絡をもらった。

急いで母の様子を見に実家へ戻った。

もともと食の細かった母は、体重も40kgほどしかなかったけれど、そのころにはもう28kgに…

抗がん剤治療もできないくらいに痩せそほり…

病院へ行って栄養の点滴を打ってもらおう!と言ったけれど、病院嫌いな母は6/30に診察に行くから大丈夫。ゆあんを置いてきたんだから、家に帰りなさい。というので、

仕方なく一度、家に帰ることにした。

30日に病院へ付き添うために前の晩からまた実家へ戻り、父と母を連れて病院へ。

そして、ついに恐れていた余命宣告されてしまいました(ノ_<)

もう母の体は限界にきていて

もってあと1ヶ月だろう。と…

でも、このときもう1ヶ月ももたないことは母の容態と先生の様子からすぐにわかった。。。

医者: 本当は、もうこのまま入院したほうが良いけど、2年前骨折したときも入院を拒んで家に帰った方なので、ご家族で決めてください。と

コロナ禍の今は、入院してしまうと家族でもオンライン面会しかできないらしく、

母を一人で寂しく病院へは置いておけない(泣)

母もぜったいに入院はしないということで、栄養の点滴をしてもらったあと、家に連れて帰った。

そこから在宅で24時間張り付いて看病をすることにした。

父は、母が食べれなくなっても何をしていいのか分からず、白ごはんに普通のおかずを出していた…(~_~;)

もっと早く気づいて、実家に戻って母のご飯の世話をしていれば…と後になって本当に本当に悔やまれる(ノ_<)

あたしは、その日から母に栄養たっぷりのグリーンスムージーを作って飲ませたり、みかんを絞って飲ませたり、りんごをすりおろして飲ませたり…

ちょっとずつしか飲めないので、

小分けして飲ませた。

中でもバナナジュースとみかんを絞った汁は美味しいと飲んだくれた。

でもそれも束の間で

一日一日、みるみる衰弱していく母。。。

あっという間に歩けなくなって寝たきりになってしまった。

無力なあたし、どうしてもっと早く気づいてやれなかったのかと

温泉旅行行こうね。という約束ももう果たせない悔しさや後悔が押し寄せてくる…

思い立ったときに連れて行ってあげればよかった( ; ; )本当に悔やまれる…

全身癌で、全身が相当痛いはずの母は、

最後の最後までモルヒネを使うことを拒み、普通の痛み止めで凌いでいた。

母は最後の最後まで、意識もしっかりしていてボケることはなかったので、

モルヒネを使ったら、意識朦朧として最後だということを知っていたので、最後の最後まで拒んだ。

普通だったら、のたうち回るぐらいの痛さだろうに、母は痛がってはいたが、ベットで静かにずっとテレビを観ていた。

もともと寡黙だった母。

いつもあたしが母に話をしていた。

いつものように色々母と話したかったけれど、言葉が出てこない…

母は、ポロッと「これが私の寿命なのかなぁ…。」と

あたしは涙を必死にこらえながら、

「そんなことないよ!病気治してもっと生きよう!」といったら、母は

「もうムリだよ。治らないよ。もっと生きたかったなぁ…」と

あたしは泣きそうになってこれ以上喋ったら大泣きをしてしまいそうで、それ以外会話はできなかった。

無言で母とテレビを見る時間が何日か続いた。

生きている母の側に一緒にいれることに心から幸せを感じた。

この時間がずっと続けばいいのにと…

奇跡が起きて!お願い!と何度も願った…

でも奇跡は起こらなかった

刻々と母の死が迫ってくるのを感じた。

忘れもしない、母が死ぬ1週間前の夜中2時から4時、母は悲痛な思いを話してくれた。

母は、24歳で父と結婚をして

そこから苦労の人生が始まった。

父は、働き者だったか父の両親は働くのが嫌いで遊んでばかりいたため、貧乏でお金に困っていたため、母は24歳から義理の両親の生活費も全て見ることになった。

しかし、姑からのよくドラマでありそうなイジメを受けていた。

さらに父は7人兄弟の長男のため、6人の小姑たちも大好きなお兄ちゃんには、すり寄っていくが、嫁である母には父がいないところでイヤミをいったり、文句をいう。

母は、辛坊強い人だったので、父にはそのことを何も言わない…

「お父さんにちゃんと言ったほうがいいよ!あたしが言おうか?」といっても

お父さんが心配するから言わないでいい。と。

だから、父はたぶん今でも母の悔しい想いは知らないと思う…

そして、悔しいとこにまだその姑、あたしのおばあちゃんはまだ元気に生きている。現在96歳…

母は、自由になるどころか

その姑より先に逝ってしまうことを一番悔やんでいた。

その想いを最後にあたしに打ち明けてくれた。あたしもこれまでの母とおばあちゃんをみているだけに、本当に悔しい…

何をされても耐えて頑張ってきた母が

なぜ自由になることを許されなかったのか…

母が選んだ道だから仕方がないと言えばそれまでだが、母には帰る実家はなく、父の会社の手伝いをしながら専業主婦でずっときたから、離婚という選択肢は考えれなかったのだと思う。

でも母は、やっぱり父のことが好きだったのか自分の人生を後悔で終わらせたくなかったのか、父と結婚して良かったと思っているようだった。

母の気持ちは思うと、

あたしは言葉には表されないくらいのやりきれないなんとも言えない気持ちが駆け巡る…

日を追うごとに母の痛みはまし、衰弱も激しくなってゆく…

痛みに耐えきれなくて

「人間どうにかなりそうだ。」と言って痛がる母の姿を見ているとあたしも精神的に辛くてしんどくてどうにかなりそうだった。

でも、母が正気で頑張っている以上、あたしも涙は見せれないと必死に堪えながら看病をした。

夜は痛みが増すようで、

寝れない夜が続き、母にとってはとてもとても長く辛い夜が続いた。。。

もう自分で寝返りさえ打てない状態

もう骨と皮だけになっている母は、寝ているだけでも低反発マットの上でも骨で体が痛いらしく、癌の痛みとダブルパンチ>_<

寝返りを手伝うにも1ミリ動かすにも激痛が伴うようだったため、動かすときは1ミリ単位でそっとゆっくり慎重に…

もう母の体も限界…

母に苦しむ姿にあたしの方が耐えきれなくなり、母に「もうモルヒネを使おう。痛みを和らげよう。」と言った。

母は、「わかった。」と

母の意識がなくなるのは本当に本当に辛いけど、母が激痛に苦しんでるのが辛過ぎてもう選択肢が他になかった…(>_<)

モルヒネの貼るシールをもらい、貼ったら痛みが少しだけ和らいだようで、ホッとしたのも束の間、2日後には

もっと痛みが増して苦しみだしてしまい、

急いで病院に電話して、モルヒネの量を増やすことに…

量を増やしたらやはり、恐れていたことが…

母の意識が朦朧としてどんどん意識が無くなっていった…

でも、あたしは母が痛みから少しでも解放されたのなら複雑な思いながらもちょっと救われた思いだった。

本当は、母の意識があるうちに

「産んで育ててくれてありがとう。」

「わがままばかりで心配かけてごめんね。」

と伝えたかったが言えなかった…

それを言ってしまうと母にお別れを言っているような気がして、母にはぜったいにさようならとは言いたくなかったから、結局言えなかった。

ただただ手を握ることしか出来なかった。

あたしは、娘のゆあんを連れてくるのに一度家に帰った。

そして、すぐにゆあんを連れて実家に戻った。

母の最後の言葉

母が最後にあたしに残した言葉は

「大丈夫」

(大丈夫だよ。という意味)

母は、とても強い人だったので

母の口癖はいつも「大丈夫」。

大丈夫じゃなくてもあたしたちに心配をかけまいといつも「大丈夫!」と

2年前、家の階段から落ちて鎖骨を折ったときも大丈夫!と言って入院もしなかった母。

骨折してから、どれだけか経ってから知らさせた💦

完治してから、相当痛かったと聞いた^^;

その時に言ってくれれば、

身の回りのお世話に行ったのに…

でも、母はいつだってそうだった。

ケガや何かあったときには、子供たち(あたしと姉)が心配するだろうと思い、リアルタイムにはあたしたちには言わなかった。

そのことが終わってから、

終わったエピソードとしてあたしたち姉妹は知らされることとなる…(^_^;)

だから、あたしたちは母のお世話をすることもなく今まで来てしまった。

そんな母を

あたしは「母は不死身だ!」とさえ

心のどこかでなんとなく思っていたのかもしれない。。。

死ぬ前日まで

意識が遠のく中、呼びかけると微かに反応してくれた。

「お母さん!お母さん!」と手を握って大きな声で呼びかけると

僅かに目を開いた

「あたしのことわかる?まりんだよ!」というと、

母は、今にも消えそうな声で「わかる」と答えてくれた。またすぐに意識が遠のいてしまう。

「ゆあんも連れてきたよ!ゆあんはわかる?」と大きな声でお母さんに呼びかけたら、また少し意識が戻って今にも消えそうな声で「わかる」と答えて微かに微笑み、またすぐに意識が遠のいた。

あたしと娘のゆりんとそれまで我慢していた涙が堪え切れなくなり、泣いてしまったら、その鳴き声が聴こえたようで微かに目を開けて

あたしとゆあんに向かって口角を上げて微笑んで「大丈夫」と微かな声で言った

もうほとんど意識がない中、

最後の力を振り絞ってあたしとゆあんを安心させるために笑顔を見せて大丈夫。と言ってくれた。

そして、完全に意識がなくなってしまった。。。

次の日も意識がないまま、

とうとう呼吸もおかしくなってきて、

息が止まりそうになるのを手を握って大きな声でお母さん!お母さん!って呼びかけたら、息をしてくれて、必死に生きようとあたしたちの呼びかけに答えようと頑張って息をしてくれた。

何度かそれを繰り返してて

みんなが看取る中、母はとうとう力尽きてまるでロウソクの炎が消えるように静かに息を引き取っていった…

本当に本当に母は最後の最後までよく頑張ったと思う。

母は子供の頃、結核にかかったが死ななかった。昔は不治の病として恐れられていた病気だったにも関わらず、死ななかった。

そのとき、死んでいたらあたしはこの世に存在しない。

頑張って生きてくれて本当にありがとう。

そして、尊敬の念を込めて

おつかれさまでした。

母の偉大さは、今ごろになって痛感。

今、振り返ってみると

あたしの人生は、母の影響が大きかった。今のあたしがあるのは、母のおかげだ。

あたしは一生母を超えることはできないなぁ(^^;

最後は、あたしとゆあんで綺麗にお化粧をして、母の日に送ったCHANELの口紅がとても良く似合って昔の若いころのお母さんに戻ったようだった。爪も綺麗にしている人だったから、綺麗な赤のネイルを塗って母のお気に入りだったお洋服を着せて送り出すことができました。

愛するお母さんへ

本当にありがとう。

大好きだよ、お母さん。

あたしを産んでくれてありがとう。

いつも自由奔放で突拍子のないことばかりして心配かけてごめんね。

お母さんの子供に産まれてきて本当に幸せだったよ。

これからもあたしはずっとお母さんの子供だよ。

さようならなんて言わないよ。

お母さんはあたしの心の中でずっと生き続けているから。

これからもずっと見守り続けてね。

お母さんの分まで楽しく長生きするからね。

いつまでも大好きだよ、お母さん。

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